揺らぎの時間

アニメや西洋文化の趣味を語っております。

はめふらの主人公が関わっていた運命と言う名の外部 

はじめに

 のざるはカタリナクラエスとしてバットエンドを回避した。自ら破滅フラグをへし折っていく姿は視聴者を爽快な気分にさせただろう。元々の主人公であるカタリナクラエスは主観的で傲慢で高いプライドを持つ人物だった。自分の中の中からあまり動こうとはしなかった。

 

 ただ、のざるの転生した後のカタリナ・クラエスは周りの人から愛さたれた。破滅フラグが来ることを知っていて、運命から逃れようと石を積んだ。私はその光景をカタリナ・クラエスという1個人から他者という公的なものに自分自身を広げていった過程ではないかと思われてならないのだ。この概念としてハンナ・アーレントの私的領域と公的領域という概念がある。

私的領域公的領域/他者

 さて、アーレントの私的領域と公的領域の概念を見ていこう。

 ハンナ・アーレントという哲学者の提唱した概念に私的領域と公的領域という概念がある。この概念はポリス時代まで遡るが、端的にいうと私的領域は家族圏、親密的な場であり、公的領域は発言することができ、自己を表現できる場所である。世界に関わる場所、政治に関わることのできる場所であると言える。<公共圏とは何か>アーレントは、公共圏には私的領域と公的領域があったとする。

 この考えをさらに発展させたのがハーバーマスである。中世の頃<時代を明記>は示威的公共圏といって、この2つの公共圏の区別はなかった。しかし、徐々に独立していき、この二つの公共圏は分離していく。分離することで、国家と親密圏が生まれ、親密圏が審美的公共圏、政治的公共圏になり、国家に対する批判を行っていたが今は両方が混ざって、それぞれの場所は融合し、無くなってしまったと提唱する。この公共圏の中で一番取り上げられるのは口論、コミュニケーションの概念である。公論は公的領域で行われる(≒コミュニケーション)は非個人的であり、他者に依存する。

カタリナの表象

 だとすると、表象は私的領域外において起こるのだろう。私的領域はあくまで家族等の中でのみ完結させえることが出来た。となればカタリナの表象の種類が変化していったのだ。表象とは象徴。シンボル。また、象徴的に表すこと。(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A1%A8%E8%B1%A1/より引用)という意味を示す。

 

 例えば中世フランスにおいて王の表象と権威について、王はもともと自身の権威性のアピールのために国内を回っていた。アンシャンレジーム期の儀式において表現される理論的な擬制から、君主の生身の身体が王国の政治的身体へ移行した。その時代の民衆はもともと、劇場の見世物(王の儀式など)を見るだけのものだった。

 王は儀式や名前や権利や法において表現され、象徴上の見せかけとして見えた。つまり表象されていたということができる。王の権威を表象することで権威を振るっていたというわけだ。この事実は描写された王の肖像、銅像等から見ることができる。

 これらの表象は結局は、政治的説得のシステムが変化していくこととなる。そして、農村においては村や町の広場における王などの文化的モチーフ等が政治的役目を奪われることとなる。

 上記の「権力を承認させる力」が「人前で見せることによる権力の示威行為の道具」という、これは王の表象に記される意味が根本的に変容したと言える。結果として王と民衆との隔たりを生み出してしまう。

四畳半神話大系 

 今期放送された、『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』(以下はめふら )について、主人公であるカタリナ・クラエスは”私”という私的領域を出て、公的に他の登場人物とも真正面から関わったことで<公的領域において活動し、表象されえたこと>破滅フラグを回避できたのではないかと私は考えてやまないのである。

 

 近しい作品に関しては四畳半神話大系という本がある。この主人公の”私”は3回生になってバラ色の青春生活をおくれてきていなかったと思い悩む。近くにいるのは友人のみ。そんな人生を受け入れることを拒む。そして、1回生にタイムパラドックス的に戻り、薔薇色の生活を何度も送り直す。そして、ある時気づくのだ。どの道を通ったって、最後にたどり着く場所は同じであるのだと。最後に、近くにいる友人たちは変わらなかったこと、過ごした日々こそが私を彩っていたのだという他者の存在に気づき、生きていくことを決める。

 この2つに共通しているものは、自分という枠組みしか見ていなかったということではあるまいか。悪役令嬢カタリナは自分のことのみを考え、自分の領域を考えていた。”私”は自分がバラ色の青春生活を送りたいのだと願っていた。自分が本当は外部から彩られていたのだということにも気付かずに。

 カタリナは外部と関わる必要があった。自分の外にある運命が、同じ道のりを通ったら、自分を破滅へと動かすことを知っていたからである。真正面に運命という他者と関わったのである。”私”という1単位を越えて。

終わりに

 公的空間の中で開かれていた。はめふら は2期の制作が決定しているわけだが、私がこの主人公がどのような選択をしていくのかに強い興味を覚えるのである。というのも、カタリナは”自分自身”の幸せを選んでいないからである。今のカタリナが不幸せであるとは言わない。ただ、カタリナは今まで未来の自分の運命を第一に考えて行動してきていた。自分だけが持ってたゲームの世界から、公の新しい世界へとステージが進むのである。

見えていた私の世界が終わったとき、カタリナは外部の他者をどのように捉えるのだろうか。まだ完全には見えていなかった未来。カタリナは、運命という強い外部から時はなたされた時、どんな行動をするのだろう?

 

参考文献

 

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

フランス革命の文化的起源 (NEW HISTORY)

フランス革命の文化的起源 (NEW HISTORY)